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原爆で廃虚と化した広島でたくましく生き抜く少年の姿を描いた長編漫画「はだしのゲン」の英訳が完了し、最終巻の第10巻が米出版社から今秋に刊行される。全巻完成に、作者の中沢啓治さん(70)は「ぜひオバマ大統領一家に見てもらいたい」と期待。翻訳者たちは早速、広島訪問を求めるメッセージを書いた色紙とともに、そろったばかりの英訳版を大統領に送る予定だ。 【関連記事】 興味のある方は、"つづきはこちらです"をクリック!
昭和20年8月6日午前8時15分17秒、「エノラ・ゲイ(ENOLA GAY)」という名前のアメリカ軍B29戦闘機が原爆「リトル・ボーイ」を投下。まもなく高度580mで炸裂したこの原爆はこの一瞬の爆発で30万人の民間人の生命を奪いました。 アメリカの原爆開発プロジェクトは「マンハッタン計画(Manhattan Project)」の名前で知られています。この計画の提案者は他でもないアインシュタインです。 1939年8月2日、アルバート・アインシュタインとレオ・シラードは最近物理学の分野で「核分裂」というものが発見され、この現象を使うともの凄い破壊力を持つ兵器を作ることが可能であり、ドイツがこの兵器の開発を進めている可能性があることをアメリカ大統領宛の手紙で指摘し、ドイツに先んじてアメリカがこれを開発すべきだと主張しました。 この動きはアメリカ国内の科学者の間で広がり、アメリカ政府も動き始めます。数々の準備を経て、やがて1942年8月13日、原爆を製造するためのマンハッタン計画がスタートしました。その責任者に選ばれたのは後に「原爆の父」というありがたくない名前をもらうことになるロバート・オッペンハイマー(Julius Robert Oppenheimer, 1904.4.22 NewYorkCity - 1967.02.18)でした。 プロジェクトはニューメキシコのロス・アラモスの研究施設に大勢の科学者を半ば缶詰状態にして進められました。同年12月にはフェルミらが核分裂が連鎖反応を起こすことを確認、翌年からウランの本格的製造も始まります。そして1945年の春頃には、夏頃までに原爆が製造できる見込みが立ちました。 当初計画はナチスドイツに対抗するために進められました。しかし計画が進行する内にドイツが降伏してしまったため、そのターゲットはまだ戦い続けている日本に変更されてしまいました。 そして1945年7月16日、世界初の原子爆弾がニューメキシコのアラゴモードで実験的に爆発させられました。当時これに立ち会った兵士らは核の恐ろしさを知らなかったため、「景気のいい花火だ」くらいに思って見ていました。無論彼らはしっかり被爆していましたが、それが明らかになったのは何年も後のことです。 計画を推進してきた科学者らは、この原爆の最初の実験を見て肝をつぶします。これほど強力な物であったとは思いもよらなかったのです。彼らは連名でこの計画の中止を大統領に訴え出ますが、トルーマン大統領は拒否。彼らはさらに署名を集めますが、軍に妨害されてしまいます。 そして計画は行くところまで進行してしまいました。 このアラゴモードでの実験が行われたその日の内に、日本に投下する予定の原爆は巡洋艦インディアナ・ポリスに積み込まれ、日本への攻撃基地のあるテニアン島へ輸送されました。このインディアナ・ボリスは皮肉なことに荷物を送り届けて本国へ帰る途中、日本の潜水艦に撃沈されてしまいます。 原爆投下目標地点は広島・小倉・長崎・新潟の順に優先することが決定されました。当初京都も目標に入っていたのですが、スチムソン陸軍長官が反対したため外されました。これらの目標都市は原爆の破壊力がはっきり分かるよう、通常の空襲は行わなずに町並みを温存しておくことが決定されていました。 そして8月6日午前2時45分、エノラ・ゲイはテニアン島を離陸します。目標は当初の予定通り第一ターゲットの広島と決定されました。四国上空を通過したところで日本軍の戦闘機と遭遇します。当然向こうは迎撃してきますが、エノラ・ゲイは関わり合いになりたくなかったため、逃げます。日本軍機も深追いはしなかったため、やがて午前8時すぎに広島上空に到達。8時15分17秒原子爆弾を投下しました。 この広島への原爆投下は「実験」の色合いが非常に濃いものでした。町並みの破壊の程度を確認するために空襲をかけずに温存したことは今述べましたが、その他、アメリカは後に日本に進駐して来た段階で、広島市の生存者の健康診断を行うとともにそれと本来似た分布を示すと考えられた近隣の呉市の住民の健康診断も行っています。 この実験の犠牲になったのは日本人だけではありません。アメリカはこの原爆を使用する前の段階としてカリフォルニア大学病院で4歳の子供を含む18人の患者に、無論本人には知らせずに、大量の放射性物質を投与し、放射能の人体への影響を調査しています。この18人は或いはすぐに死亡したり、或いは足を切断する羽目になったりなど、深刻な放射能障害にかかっています。 マンハッタン計画を進めていたオッペイハイマーら自身も最後の辺りではかなり身の危険を感じていました。彼は万一の時のために最低限記録に残さなければならないことを奥さんへの手紙に書きました。ただしこの時普通に手紙に書けば検閲に引っかかってしまう為、二重にした封筒の内封筒に文章を書くという方法でこれをクリアしました。 アインシュタインが懸念していたドイツの核開発は1944年2月に断念されていました。ドイツは日本とも協力の上原爆の開発を進めており、日本でも数十人の科学者が研究をしていましたが、こちらは1945年4月の東京大空襲で原料のウランが焼失してしまい、こちらも断念を余儀なくされていました。ドイツは一部のウランを日本に搬送していましたが、この搬送途中の船が連合軍に拿捕されてしまい、このドイツで精製されたウランは広島原爆の材料の一部に使われてしまいました。 広島の原爆の死者は当初1万5千人と発表されました。しかし年を追うごとにその数字は増え続け、現在では15~20万人程度と推定されています。ただしこの人数はあくまで原爆によりすぐに死んだ人の数であり、その後放射能障害で死んだ人を含めると30万人以上に上るものと思われます。 原爆が落とされた時、広島は50年は人が近づけない町になるのではないかと言われました。しかし偉大な自然はその強い放射能をも浄化して大都市を復興させてくれました。 今、爆心地にたたずむ原爆ドームにはなぜか静かな空気が流れています。 ─…─…─…──…─…─…──…─…─…──…─…─…─ 大東亜戦争(第二次世界大戦)の検証を・・・・・ 日本を今後1000年は立ち上がれぬようにしたかったが為の原爆投下! 本当の意味でのWW2の目的を子孫に伝え残さなければ・・・・・ 向こうの思惑にそのまま立ち向かうのではなく、
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