2024 11,23 16:22 |
|
2009 02,15 12:00 |
|
~今こそトーマス・ジェファーソンの名言に学べ~ 私は“かんぽの宿”騒ぎで色々なことを考えさせられましたが、その中で、インターネットについても宗旨替えせざるを得なくなりました。少なくとも日本では、インターネットは民主主義やジャーナリズムといった社会の基盤の強化には全く役立っていません。マスメディアが苦境に陥ってもインターネットがあれば大丈夫なんて理想論は忘れましょう。日本における民主主義やジャーナリズムの将来のためには、マスメディアの再生が不可欠なのです。 興味のある方は、"つづきはこちらです"をクリック!
■トーマス・ジェファーソンの名言 トーマス・ジェファーソンのことを知らない人はいないでしょう。米国が欧州の植民地支配から独立するときにアメリカ独立宣言を起草した人物であり、民主主義の歴史を語る上で欠かせない人物です。では、読者の皆様は、そのジェファーソンが1787年に記した以下の名言をご存知でしょうか。「“新聞のない政府(a government without newspaper)”と“政府のない新聞(newspaper without a government)”のどちらかを選べと言われたら、私は迷わず後者を選択するであろう。」 そうです。民主主義の旗手であったトーマス・ジェファーソンは、民主主義の維持のためには政府よりもジャーナリズムの役割が重要であることを、18世紀末の時点で喝破していたのです。 時代は移って21世紀に入り、デジタルとインターネット(以下“ネットと略します)の普及によって、世界中の新聞が広告収入の激減で瀕死の危機に喘いでいます。新聞ほどひどくないにしても、テレビ、特にローカル放送も同様の苦境に直面しています。トーマス・ジェファーソンが重視した新聞のみならず、ジャーナリズムの担い手であるマスメディア全体が崩壊の危機にあるのです。マスメディアのビジネスモデルが時代遅れになったことが最大の要因であり、経済危機はそれを早めただけに過ぎません。
その一方で、マスメディアから逃げ出した広告費が流入してネットは隆盛を極めています。その中で、マスメディアはネットを積極的に取り込み、草の根のシチズン・ジャーナリズムが勃興し、今やネットがジャーナリズムの担い手になるかのような勢いです。では、それは良いことなのでしょうか。 言い方を変えると、ネットの黎明期に“ネット上ではすべての個人が自らの意見を発信できるようになるから、ネットの普及とともに民主主義が強化されるであろう”と言われていましたが、ネットが十分に普及した今、それは正しい洞察だったと評価できるでしょうか。 私は個人的に、“かんぽの宿”騒ぎを通じてその答えが明確になったと思っています。日本のネットはゴミの山であり、ジャーナリズムの担い手になり得ないことはもちろん、民主主義の強化に何の貢献もしていないと確信しています。
“かんぽの宿”はいよいよ大騒ぎになっています。もちろん、真実はまだ明らかにされていません。ただ、今回の騒ぎは別の点で教訓を提示していることに留意すべきです。 皆さんもグーグルやヤフーで“かんぽの宿”を検索してみてください。検索結果の最初の数ページを開いてみると、驚くまでに同じような内容、具体的には 民主主義が貫徹されるためには、どんな事象についても賛否両論が健全に展開されるべきです。そのためには、トーマス・ジェファーソンの言葉からも明らかなようにジャーナリズムが重要な役割を果たすのです。ところが、“かんぽの宿”から明らかになったのは、日本のネット上は同じような一面的な評論とその安直な引用ばかり、情報のゴミ溜めとなっており、今のままではマスメディアに代わってジャーナリズムを支え、民主主義を強化する器にはなり得ないということです。スキャンダルやゴシップの集積場でしかないのです。 それに比べると米国では、ネット上で様々な問題について検索すると、大抵の場合は検索上位で賛否両論が見つかりますので、ネット上でも民主主義とジャーナリズムがある程度根付いていると言えるのでしょう。もちろん、ネットは基本的にゴミ溜めになっているという点では日本と同じですが。 では、なぜ日米でこのような差が生じるのでしょうか。ネット自体が悪いわけではないと思います。私見になりますが、日本社会にはまだ民主主義が十分に根付いておらず、かつ本当の意味でのジャーナリズムが存在しない、というのが最大の理由だと思います。日本に本当の意味での民主主義が持ち込まれたのは敗戦後であり、その歴史はまだ浅いと言わざるを得ません。また、日本の記者の大半は、本当の意味でのジャーナリストではなく、数年で異動して担当も代わるサラリーマンです。 そのように考えると、日本のネット上が民主主義やジャーナリズムとはかけ離れた世界になるのは、やむを得ないと言わざるを得ません。
だからこそ、瀕死の事態に直面している新聞やローカル放送をはじめとして苦境に喘ぐマスメディアの再生は、日本の将来のために不可欠です。マスメディアが衰退してネットが主流になっては、まだ日本に完全には根付いていない民主主義やジャーナリズムがいよいよ今まで以上に廃れるだけです。 私は、マスメディアの再生のためには、古くなったマスメディアのビジネスモデルの進化が不可欠だと主張してきました。しかし、今やそれだけでは不十分と言わざるを得ません。同時に、民主主義を支える公器としてマスメディア自身が今一度ジャーナリズムを強化することも必要ではないでしょうか。ある意味、ネットの世論の堕落は、ワイドショーを中心としたマスメディアの報道の堕落を反映しているかもしれないからです。マスメディアが一層しっかりとして、ネットにも良い影響をもたらさなければならないのです。 これまでネットの様々な可能性が語られてきましたが、ビジネスやエンターテイメント、技術といった側面に偏っていたのではないでしょうか。私自身、自分のこれまでの主張について“かんぽの宿”問題を契機に深く反省しました。ネットの将来を考えるに際して民主主義やジャーナリズムの観点を欠いては、ネットは単なる流通経路、ゴミ溜めでしかなく、決して成熟したメディアにはなれないでしょう。 いずれにしても、経済危機が深まるにつれ、世界的にマスメディアの苦境は更に厳しいものとなっています。そうした中、世界的にマスメディア、特にローカルメディアの再生に向けた新たな取り組みが徐々に出始めています。次週は、そうした点について説明しつつ、民主主義やジャーナリズムという観点を加味した場合、マスメディアの再生はいかに行うべきかを考えたいと思います。 ─…─…─…──…─…─…──…─…─…──…─…─…─
ただ・・・ネットが単なるゴミの山で終わらしたら、それは本当のアホです。 ・・・で、コヤツは、慶應大学大学院メディアデザイン研究科教授で、 ・・・で、言っているポイントを整理すると、 ・「かんぽの宿」騒動で、ネットには一部の反対派に賛同する意見のオンパレード 状況説明は上記ポイントに集約され、主張は「ネットはゴミの山」、 平たく言えば、「ネットの情報を鵜呑みするな、これまでの新聞などの 岸の主張は、マス・コミュニケーション論の初歩で言われることに 【マス・コミュニケーション論の初歩】 マス・メディア論の基礎は、必ずといっていいほど上記の解説から始まります。 新聞やテレビなどの「大衆報道」(マスコミ)に流される風潮を戒め、 今回の岸の主張には、こういった視点が全くありません。 いきなり「ネットはゴミの山」という結論から、 今回の「かんぽの宿」騒動では、確かに一方通行な主張が目立ちます。 本来であれば、そういった主張への対論が含まれてこその岸の主張なわけ おかしくないすか? それ。 ・岸は、たかが、「かんぽの宿」問題のみで、ネットに民主主義はないと決めつけ のです。 岸の主張は、最初から最後まで、一貫して「話が繋がってない」上に、 この岸の主張も、彼の「フィルター」がかかった、ゴミの一部分であることを これで、メディア論の教授というのだから驚きです。 でも、ゴミの山だというのは賛同します。要するに、線引きがないだけで、 ・・・で、以前ワタシのブログでアップした記事を読んで観て下さいませ。 ジャーナリズムの本当の目的 そして下記動画、 ジョン・ピルジャー氏の講演「リベラルな報道機関による民主主義の圧殺」 PR |
|
コメント |
コメント投稿 |
|
trackback |
トラックバックURL |
忍者ブログ [PR] |