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2008 08,10 17:00 |
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承子さま「早大進学」説,学習院ではないのか J-CASTニュース 2008/7/28 留学先での奔放な生活ぶりをブログにつづったとして話題になった、高円宮家の長女承子さま(22)が、留学期間を「満了」し帰国した。「落第説」も出ていただけに、今後の進路が注目されていた中、今度は「早大進学説」が浮上した。皇族は一般的に学習院大学に進学するものとされており、仮にこれが事実であれば、異例中の異例だ。(続く) ─…─…─…──…─…─…──…─…─…──…─…─…─ ・・・ってことで内容は上記サイトで観て下さい。 承子さま、ご入学先は早大国際教養学部 興味のある方は、"つづきはこちらです"をクリック!
まぁ~誰がドコへ入学しようが、別に好いんだけれども、 まぁ~何だ・・・・・当り前なんだが、皇族関係とのお付合いもしたことの無い ・・・・・で、下記サイトに色々とあります。 http://d.hatena.ne.jp/royal24news/ 見方は上記サイトを開き「royal24newsさんがご利用中のはてなの各サービス」
京都には旧皇族の方々・・・・・現在は宮家から外れて苗字があるので、 まぁ~そんな方々がお近くに・・・もしくは同級生とか、親戚とかにいますと、 まぁ~畏れ多い事ではありますが、ワタシから言わせて戴くと、 ・・・で、下記にこんな記事があるのですが、 華族制廃止で生まれた「霞会館」 旧華族の集まり「社団法人・霞会館」について話を聞きたいと申し出たら、こちらでお待ちくださいとロビーに案内された。霞が関ビル34階、ガラスの向こうに東京湾が見渡せる。 壁に見事な油絵がかかっていた。明治の洋画家、百武兼行(ひゃくたけ・かねゆき)の「ネメアの獅子と戦うヘラクレス」。見入っていると「すばらしいでしょう。鍋島藩とかかわりの深かった画家です。こうした大作は保管するのも大変で、ご寄贈いただきました」と上品な紳士が登場した。「霞会館常務理事、大久保利泰」と名刺にある。というとあの、大久保利通の? 「はい、4代目」。ここで名刺交換する名前の多くは現代史に直結する。 そもそも、霞会館って何でしょう。「では、明治維新からお話ししないといけませんね」。『会館の栞(しおり)』や『霞会館百三十年の歩み』(平成16年刊)を基に、大久保さんが説き起こしてくれた歴史を急ぎ足でたどるとこうなる。 霞会館の前身「華族会館」が創立されたのは明治7年。「華族」の名称は2年の版籍奉還の際、公家と大名を合わせて称したことに始まるが、「華族は国民の模範となり、わが国の近代化に貢献するよう」との明治天皇のお言葉があったことから、活動母体として「華族会館」が創設された。17年に華族令が制定されて勲功による華族も加わり、37年には社団法人になった。子弟教育のための学習院設立や伝統文化保存など活動の場は広い。 文字通りの活動拠点である「会館」は各所を転々とした後、鹿鳴館に移る。文明開化のシンボルも関東大震災でダメージを受けたことから昭和2年に現在地に新館をつくることになる。 さて、ご存じの通り、戦後、新憲法のもとで華族制度は廃止された。「華族会館」をどうするか。当然、解散論、存続論が激しく戦わされることになった。先の『百三十年の歩み』によると、「解散は華族の歴史と伝統の放棄につながり、それは先輩たちの意志に反する」ということで存続が決まり、名称については「占領下において誤解を生じる懸念がある」として「霞会館」と改められた。 それがいまにつながるというわけだが、旧華族の活動とはいかなるものか、そこを知りたい。(編集委員 石野伸子) ─…─…─…──…─…─…──…─…─…──…─…─…─ 「敗戦以前の華族 」酒井美意子 ■華族の実態 一般に思いこまれていることだが、華族全員が裕福で、戦前上流社会を形成していたわけではけっしてない。公卿(くげ)、大名の旧華族ですら、自分たちの持つ文化や生活様式を最高と思い、お互いに反目し合っていた。
華族は、いつ、どんな形ででき、それはいかなるものであったかを、私の生家前田家や婚家酒井家の記録に基づいてのべる。今まで上梓(じょうし)されたこの種の本は、実際に“華族”としての体験がなく、想像や又聞きで作製されるらしく、正確さを欠くうらみがある。
日本の華族と西洋の貴族をまったく同一のものと考えるふしがあるが、広辞苑によれば貴族とはこういうものである。すなわち、「中世ヨーロッパの封建社会で、戦士身分として僧侶とともに領主層を構成し、農民を支配した階級」で、しいていえば日本の大名とよく似ている。
霞会館については紆余曲折(うよきょくせつ)あるが、こまかいことは省略して大筋をのベ、ご参考に供したい。
学習院という学校は、そもそも弘化四年(一八四七)に京都で公卿の子弟の教育機関として設立された。それが明治十年に華族会館が経営する私立学校として華族学校と名を変えた。これは男女共学であったが、男子の数が多いことなどから、どうしても男子中心の傾向にあった。
間違いやすいのは“華族”という一つの集団があって、皆が同じような生活をしていたという思いこみ。実際は、もっと複雑なのである。
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