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2008 07,27 17:00 |
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『兜町事件簿』PART1 『兜町事件簿』・・・なぁ~んて言うモノがあって、 ・・・で、一発目は『光通信株暴落事件』で行きたいと思います。 興味のある方は、"つづきはこちらです"をクリック!
そして、1988年2月、光通信という名の会社を創立させます。 同社は、直ぐにDDIの契約取次ぎの代理店になります。長距離をかける時、 「契約を取るまでは、帰ってくるな」との強烈な営業方針により、 この頃、重田は、巣鴨高校時代の親友・久保田正有を事業に誘っています。 1994年、携帯電話の売り切り制がスタートします。 この過程で切られたのが、親友の久保田です。 この影響で、光テックと電創は、94年倒産します。 激怒した久保田は、「手数料の未払分5億4800万円の支払い訴訟」と ともかくも、重田は、ドライに過去を切り捨て、携帯電話ビジネスに邁進します。 光通信の高収益の秘密は、特別インセンティブと呼ばれる 携帯電話の定価が35000円とします。通常の代理店はこれを一台販売すると40000円のインセンティブが入ってきます。圧倒的に販売台数の多い光通信は、 1999年3月、重田は、DDIの日沖社長と会談。決定的な約束を取り付けたと 「今後、一年間に100万台の携帯電話を売れば 重田は、この無謀な提案に飛びつきます。 ◆◆「俺に不可能の文字はない」と思ったのでしょう。◆◆ ◆◆ しかし、この約束が、光通信株のホールダーの◆◆
重田は、約束を実現するため、HIT SHOP(販売店)のフランチャイズを 1996年2月26日、重田が31歳のとき、光通信は店頭公開を果たしています。 1999年8月、光通信は、店頭から二部を飛び越して東証一部に上場します。 1999年9月重田は、光通信キャピタルを設立します。 クレイフィッシュやリキッド・オーディオ・ジャパンなどは、大成功を収め、 アメリカでも、ネット株のバブルが大きく膨らんでいました。 10月下旬、光通信の人気に火がつきます。11月29日136000円、 そして、2月17日、株価は225000円に到達します。 重田は、個人名義で617万3000株、光パワー(個人資産管理会社)で 重田康光の得意の絶頂の瞬間です・・・ しかし、光通信では、大問題が発生していました。 重田は、早い時期から「寝かせ」という秘策を講じていました。 通話はされずに、月3400円の基本料金や事務手数料2700円は、 ◆◆こんな詐欺的ごまかしが、長続きするはずありません。◆◆
株価操縦による重田社長の逮捕説も流れ、3月14日には83500円まで 3月15日、重田は、緊急記者会見を開かざるを得なくなります。 寝かせによる架空契約は、DDIに大損害を与えていました。 DDIから特別インセンティブの割増分(170億円)がもらえなくなることは、 株価は、これを受けて一時的に反騰します。3日連続のストップ高で3月21日には、104000円に回復します。この時期、重田に騙され光通信を買った方は、本当にお気の毒です。 そして、運命の3月30日が巡ってきます。 この日突然、光通信は、2000年8月期の業績予想の下方修正を発表します。 この日の終値は、78800円でした。 兜町史上に残る大暴落劇は、ここから始まります。 ほとんどの日は、売り気配のままストップ安になり、出来高はありません。 6日間は、1万株台のストップ安の比例配分です。 すなわち、減益発表の後、株主は、売りたくても売るチャンスがまったくありません。(4月24日だけが例外で125万株の出来高がありました。) 4月28日、取引が正常に戻った時は、株価は19800円と4分の1に 重田の記者会見でついた嘘は、多くの人に大損害を与える犯罪では その上、重田個人は、光通信株の売り抜けを行っています。 2月といえば、170億円がDDIからもらえなくなることが、判明した頃です。 多くの二次代理店が、重田から切り捨てられ、倒産に追い込まれます。 ◆◆たとえ、光通信が倒産しても、◆◆ PR |
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コメント |
coffeeさんは自分もかなり勉強させてもらってました。
2000年くらいにカーボンの将来性をいち早く知らせてました。 【2008/07/2801:25】||ながっち#2a13972b98[ EDIT? ]
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