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QUO VADIS?――「世界システムの大転換」に関する私の考え(その2) 原田武夫国際戦略情報研究所公式ブログ 2008-07-11 18:43:31 「世界システムの大転換」に関する私の考え の続きです。
画一的な処方箋が全て悪いというわけではない。「これが正解だ」と示されると、人はえてして安心するものである。なぜなら、思考することなく、生きていくことができるからだ。その意味での“安逸”は、既に始まりつつある“分散化の時代”には無い。 上記の世銀報告書を読んでも、必ずしも「効果的な政府」はイコールかつての“開発独裁”におけるような強権的な政府を意味しているわけではないように見受けられる以上、いわば社会が政府(官僚)の側から「答え」を上から承るという姿がそこで絶対視されているわけでもない。しかも、視線をさらに社会そのものへと転ずるならば、実はそこでもさらなる“分散化”が着実に進展し、あるいは仕掛けられているのである。 そのカギとなるのが、インターネット社会の本格的な到来である。この点について、これまで私はこのコラムにおいて「IT2.0時代」に関する考察として繰り返し述べてきた。 ●「地上波デジタル放送」への強制転換に伴うテレビ・メディアの低落を筆頭に、大手メディアはもはや瀕死の状態にある。そもそも、リアルタイムで「思考の糧」としての情報を得るために人々が接しようとするメディアであるのにもかかわらず、所詮は一民間企業に過ぎず、その意味で特定のポジションからの情報提供をするに過ぎない大手メディアたちは、徐々に視聴者・購読者を失っていくことになる。なぜなら、大手メディアにそうした役割は期待できず、そうである以上、大手メディアに接することは「時間の無駄(waste of time)」だからだ。 ●その一方で、情報源としてインターネットをより深く人々が使いこなすようになってくる。米国はこうした潮目をあえてすすめるべく、政治におけるIT宣教師とでもいえる存在へとバラク・フセイン・オバマ(民主党)をまつりあげ、盛大なIT大統領選挙を繰り広げつつあり、それがさらに世界のIT2.0化を進めて行く。「あらゆる情報が、まずはネットで検索すれば出てくる」という状況を実現するために米国政府が主導する形ですすめる“情報公開”は全世界に広まっている。 ●日本の場合、おそらくは来年早々には導入されるであろうIT選挙(=公職選挙法の改正)がカギを握ることになろう。なぜなら、これによって小口献金のHP経由での集金が可能となり、かつ動画・ブログを通じた積極的な政治活動の展開が可能になってくるからである。その結果、もはや「なぜ、この司会者が政治家(候補)たちを相手に偉そうに議論をぶつのか。何の権限があって、彼・彼女はそうしているのか」、あるいは「なぜここまで政治は茶化されるのか。単純な構図、紋切り型で語られるのか」という疑念が見ていると秒単位で浮かび上がってくるテレビ・メディアを通じた政治(テレポリティクス)は終焉を迎える。当然、これにもっともすばやく対応できた者だけが、政治の場裏で生き残っていくことにもなろう。 しかし、問題はここからである。―――インターネット化は同時に社会の“分散化”を招くからだ。 その理由は二つある。―――1つには、ブログを運営されている方は肌身に感じられていることであろうが、いわゆる人気のアルファ・ブロガーであろうとも、世の中のすみずみまで自らのメッセージを浸透させることは不可能なのである。なぜならば、「与えられるだけ」の大手メディアとは違い、「書き込む」「画像をアップする」ことが出来るWEB2.0化したインターネットの世界には日々、世界中より無尽蔵のコンテンツがアップされ続けているからである。 この時、こうしたコンテンツの受け手である人間は、かえって決定を遅らせ、あるいは選択をしない方向へと向かってしまうことが知られている。つまり、コンテンツの“多チャンネル化”は、けって私たちを狭い空間における安寧へと追い込む効果を持つのである。その結果、私たちはIT2.0の世界において無限大の自由を得たつもりでいながら、実は蛸壺の奥へ奥へと入り込んでいってしまうのだ。これが社会の“分散化”を加速させる第一のドライバーとなる。 さらに忘れてはならないのは、IT2.0の進展によって以上のとおり「インターネットを使う頻度は日常の中で多くなっているにもかかわらず、ますます蛸壺にはまっていく」という状況の中で、少しでも利潤を他より上げようと企業・組織が努力する結果、かえって”囲い込み“が進んでしまうという事実である。プッシュ型マーケティングのためのツールの典型であるメールマガジン、あるいは会員のみがアクセスできるblogsphereとしてのSNSがまさにその典型例である。 特に世界的な景気低迷が叫ばれる中、企業はいずれも端的に高収益を上げるべく、こうした「囲い込みビジネス」へと殺到しつつある。今や、大企業のHPであっても、フロント画面に「メールマガジン登録」のバナーを見ないことは稀になりつつある。―――正に徹底した“分散化”の時代の到来である。 このようにして進む社会の“分散化”の中で生き残るための道は一つしかない。それは、広大に広がるインターネット空間における「取り分」「囲い込んだ領地」を少しでも広げるべく、そこでにコンテンツを提供し続けることである。つまり、今正に訪れつつある新しい世界システムにおける“覇者”は、いずれも同時にこの意味での“創造者”でなければならないということなのである。 かつてIT革命という言葉があった。単なる技術革新(innovation)に過ぎないのに「革命」とは何事かと物議を醸したものである。確かにその当時(90年代後半から2000年代初頭)におけるインターネット化とはインターネット回線を広げ、高速化し、かつその上で使えるソフトウェアなどのツールを多様化させる(ブログ、SNSなどの登場)に過ぎなかったわけであり、いってみれば、いってみれば「アスファルトの道路を敷くこと」に他ならなかったのである。確かに舗装道路の登場は人間の生活を変えたことは変えた。しかし、本当にそれを変えたのは道路ではなく、その上を走る“自動車”の登場だったはずなのである。そしてたとえて言えば、現在のIT2.0時代とはこの自動車にあたるもの(コンテンツ)を多種多様に開発し、創造していく時代を意味しているのであって、ようやく「革命」にふさわしい展開が見込まれるようになったのだというべきなのかもしれない。 このように、これからの世界における覇者は“創造者”、すなわちコンテンツを創りだす者である。だが、クリエイティビティ(創造性)に長ける猛者たちであっても、徹底した創造への努力の過程においては、必ず壁にぶつかる。時代の流れが一段と速まっているIT2.0の時代では、なおのことこうした「壁」はたちまち訪れることであろう。 そうした時、創造者たちが取る手段は一つしかない。―――それまでの「常識」からして、忘れ去られていたものへと回帰することである。それでは、ここでいう「これまで忘れ去られていたもの」とは一体何なのか? こう考える時、私は再び、金融資本主義の視点から歴史を振り返らなければならないのだと思う。そして、そこで注目すべきなのが、今、正に大転換しつつある世界システムが始まったのは今から100年ほど前であり、そこで登場したのが“大衆”という巨大な存在だったということなのだ。 すなわちこういうことである。―――現代の金融資本主義を支えているのは、他ならぬ無数の“大衆”が日々の営みで生み出している富である。これをいかにして効率よく、かつ大衆にそれとして気づかれないように巻き上げ続けるか。そのために創られたのが、現在の世界システムなのであり、その根幹には「金融」と「マスメディア」という二本柱があるのである。簡単にいえば、後者を通じて大衆の欲望をかきたて、特定の方向へと誘導することを通じ、ある金融商品へと個々人の富を“投資”させ、結果として彼らの手には戻らないようにするというのがそこにあるシステムなのである。厳しい描写であるが、冷静に考えれば、現在の世界システムとはそれ以上でも、それ以下でもないことに気づかざるを得ないのだ。 「より効率的に大衆を追い込むにはどうすればよいのか?」―――マスメディア(大手メディア)はこの問いかけに対する回答を出すべく腐心し、“より過激なものへ”“より視覚的なものへ”と殺到するに至った。技術革新がこれに拍車をかけたことはいうまでもない。 このように陳腐化が極端にまで進んでしまった現代社会において、「創造性」へと回帰するための手段は一つしかない。それは、素朴な人間生活、もっといえば「人間性」へと回帰することである。 とりわけその一つの潮流として既に見え始めているのが、「画像」から「音」への回帰現象である。最近になって、日本を代表する広告代理店たちが突然、インターネットと親和性が高いのは枯渇感のより強いラジオCMであると言い出したことは、業界関係者であれば誰しもがご存知のことであろう。また、いわゆるオーディオブックに向けられた熱いまなざしは、先般、オバマ候補が世界的に有名なグラミー賞を自著の“朗読”(オーディオブック) 「分散化するがゆえに、絶えず創造性を意識しなければならない時代。しかし、だからこそ結果として人間性へと回帰することが求められる時代」―――それが、これから訪れる新しい世界システムの一つのプロフィールなのである。 2008年7月11日 (続く) PR |
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