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2008 05,24 14:00 |
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田村秀男の経済がわかれば、世界が分かる 2008/05/23 製品価格を原材料価格で割った交易条件指数をみると、先進国の中で日本の低下ぶりがもっとも激しい。ということは、全般的に日本の産業界は原油価格の上昇分からくるコスト増を製品価格に転嫁する度合いが少ないからだ。企業は値上げを回避するためにぎりぎりまで人件費の切り詰め、下請けを絞り上げる。 興味のある方は、"つづきはこちらです"をクリック!
【経済が告げる】編集委員・田村秀男 現代版アリとキリギリス イソップ寓話(ぐうわ)の「セミとアリ」では、ひたすら働くアリを侮り、自身は浮かれた生活をしていたセミが冬場になって食べるものに困り、アリに助けを求めるが断られる。ところが米国は1934年に制作されたディズニー映画でセミをキリギリスに置き換えて「キリギリスとアリ」の物語に仕立て直した。結末も、アリがキリギリスを助ける「美談」に変わった。 例えば、日本の住宅ローン金利。金融機関は今月初めに金利を一斉に引き上げ、6月もさらに上げる気配だ。3000万円のローンなら、1%も上昇すれば年間30万円負担が膨らむ。理由は住宅ローン金利の基準になる長期金利の上昇である。長期金利とは長期国債の利回りのことで、その上昇の背景は「インフレ懸念」(日本経済新聞5月15日付朝刊)との説明がいかにももっともらしい。 実際にそうなのか。日米の長期金利の推移を調べてみると違った様相が浮かび上がる。米国の低所得者向け高金利型住宅ローン(サブプライムローン)危機が表面化した昨年夏から、日本の長期金利の振幅は米国と一致し、4月には日本が米国以上に跳ね上がった。 なぜか。「日本の国債相場をリードしているのは、実は米国のヘッジファンドなど大口投資家です。インフレ懸念というのはあくまでも後付けの理屈にすぎない」と大手証券のベテラン債券ディーラーが打ち明ける。ヘッジファンドなどはサブプライム危機後、株式を売って安全資産として日米の国債に資金を移した。パソコンの売買プログラムでは日本の国債保有比率を固定している。米株式不安が少し和らぐと米国債から株式に投資先を切り替えるが、キーボード操作ひとつで自動的に日本の国債も売ることになる。 ヘッジファンドに大口資金を融通しているのは日本の金融機関である。銀行などは、住宅ローン以外は国内での貸し出しに消極的だ。預金の運用先を国債とヘッジファンドに振り向けている。その国債相場を動かすヘッジファンドにつられて、日本国債を慌てて売る。米国債が売られると日本国債はそれ以上に売られ、相場が急落し、利回り、つまり長期金利が急上昇し、結局住宅ローンを借りる日本の一般消費者にツケが回る。 日本の株式も売買シェアの7割を占める「外国人投資家」が米国株式を基準に相場を決める。 しゃくにさわるかもしれないが、アリの日本人はキリギリスの米国人を責めても無駄だ。世界最大の債権国になるまでせっせと働いてため込んでいるなら、その富は日本国内で使えばよいじゃないか、と言われるのがおちだろう。日本のカネでなくても、中国などの新興国やアラブ産油国が対米証券投資しているとの余裕が米国には生まれている。 国内で新ビジネス機会を創出して投資を活発化させる。いかがわしい取引が横行し、裏社会の関与まで取りざたされる株式市場をきちんと整備する。そんな当たり前の政策を実行できない日本という国のあり方を正さないと、日本人はいつまでもキリギリスに貢いで余計に働く羽目になるアリであり続けるだろう。
久しぶりに経済ネタになりますが、石油が1バレル130ドルを突破しました。1ヶ月の間に20ドルもの上昇です。株式で言えば売る人がいなくなって値だけが飛んでいる状況ですが、買っているのはFRBから資金供給を受けているアメリカのヘッジファンドでしょう。FRBは金融機関を救うために資金供給しているのですが、その金が石油投機に向かっている。 いわば金融緩和の副作用で、中央銀行がジャンジャン資金供給して株式や債券市場が動いているのはいいのですが、石油や穀物市場で値が吊り上げられている。生産国の産油国やアメリカなどの穀物輸出国にとっては儲かりますが、世界の消費国は投機マネーで吊り上げられた石油や穀物を買っていることになる。 これが大西宏氏の第四次世界大戦であり、田村秀男氏のアリとキリギリスの物語だ。日本やドイツや中国がせっせと物を作り続けるアリなら、金融で稼いで遊んでいるのがアメリカや中東産油国などのキリギリスだ。金融は所詮ゼロサムゲームだからいつかは破綻するのですが、アリがせっせとキリギリスに甘い蜜を供給している。 バブル以前は日本国内にも証券会社が国内証券市場に資金を供給して相場を盛り上げてきたのですが、バブル崩壊で日本の証券会社は壊滅的な打撃を負って、相場形成能力を失ってしまった。バブル以前は特金などがあって日本企業は余裕資金を証券会社に資金運用させてきた。ところがバブル崩壊で特金は破綻して、日本企業は外資系ファンドに資金を預けるようになってしまった。 日本の証券会社には資金運用能力が無かったということですが、確かに日本の証券会社の証券マンには投資ファンドを運用できる能力は無かった。彼らに出来る事は本社が決めた銘柄を客に買わせる事だけであり、このような組織営業ではバブル崩壊が来たらひとたまりもない。 なぜ日本の証券会社は、外資系証券会社のような投資ファンドマネージャーを養成しなかったのだろうか? それは会社の組織形態が欧米とはまったく異なっていたから無理だったのだ。日本の証券会社は売買の仲介が専門であり投資信託も規制だらけで運用実績は上げようも無かった。それに対してアメリカの投資ファンドは実績本位であり、実績の上げられないファンドマネージャーはすぐに首になった。 日本でも自前のファンドマネージャー養成しようとしたり、外資系のファンドマネージャーをスカウトしたりして真似してみたが上手くいかなかったようだ。だから日本にはゴールドマンサックスやモルガンスタンレーのような投資会社を作るのは不可能なのだろう。なぜならばゴールドマンやモルガンには元政府高官が役員としてなっており、ポールソン財務長官のようにまた政府高官になったりして、GSやMSはアメリカ政府そのものと言ってもいい。 日本では財務大臣が野村證券に天下ったり、野村證券の会長が財務大臣になったりする事はありえない。だから野村證券がGSやMSに敵うわけがないのである。今から考えれば日本の証券不祥事はアメリカ政府ぐるみの情報戦争に敗れたわけであり、大蔵省もスキャンダルを暴露されて大蔵省は解体されて財務と金融は分離された。 今では日本の金融市場はほとんど外資系証券会社のシェアが7割となり、日本の証券会社は金融市場に対する営業能力は失ってしまった。日本人は金融といった情報戦争には向かない人種であり、バカ正直に物を作っているしかないのだろう。アメリカの投資ファンドは投資というよりもギャンブラーであり、国家ぐるみの収奪機関である。 金融大国のアメリカやイギリスには情報機関があって、軍事的な情報のみならず経済情報も盗聴などの非合法な方法で情報を収集している。80年代90年代の日米経済交渉などは、日本側の手の内はCIAによって全部お見通しだった。日本にはこのような情報機関がないから日本政府はアメリカ政府のなすがままになり金融戦争で全面敗北した。 「株式日記」ではこのような内幕を暴露してきたのですが、日本国民はこのような陰謀話は信じようとはしない。日米は同盟国のはずですが、ソ連崩壊以降はアメリカ政府は日本を敵国として日本の弱体化を謀ってきた。その成果が「日本の失われた10年」ですが、日米はいつの間にか同盟国関係から植民地と帝国の関係になってしまった。 帝国循環という言葉を以前に紹介した事がありますが、19世紀の大英帝国とインドの関係がこれに近い。現在のアメリカの繁栄を支えているのも日本からのマネー還流であり投資という名の収奪行為が行なわれている。日本政府はドルの買い支えを行い、アメリカ国債を官民合わせて400兆円も買っている。ドルが紙切れになれば日本は騙し取られた事になる。 このように露骨に書くと、アメリカの手先のような人がデタラメな反論をしますが、日本の財務省や金融庁などにはハゲタカファンドマネージャーが出入りしているのを見かけるだろう。日本政府はアメリカ政府にがちがちに監視されて、言う事を聞かないとスキャンダルを暴露されて政治家も官僚も失脚することになる。 このように国際金融資本はアメリカ政府や日本政府を自在に操っては巨額の利益を濡れ手に泡で手に入れて行く。まさにアリから蜜をむさぼるキリギリスであり、童話のような世界ではない。オリジナルな童話は日本と米英では価値観がまったく異なるようだ。
イソップ物語は国によってその民族の価値観とその国に生息する動物や昆虫によって話が作り変えられているようです。日本では仏教の教えや儒教の教えに合うように結末が変えられています。(日本のイソップ物語は優しい思いやりのある主人公が登場します) 世界中に住む蟻は変わりませんが蟻と比較される甲虫(原作)は国によって変更せざるを得なかったようです。日本ではキリギリスですが、英語版ではgrasshopperとなっています。Grasshopperとはバッター、イナゴ、キリギリス類の総称です。岩波文庫「イソップ寓話集」では甲虫(糞を集めて卵を産みつける)が怠け者になっています。僅か7行の短い話です。結論も将来のことを考えないと時節が変わったときにひどく不幸な目にあうものです、とだけで食べ物を分けてあげたかどうかには触れていません。 一方英語版の最後は、各話が必ず短い教訓で終わります。「夏に音楽を奏でて忙しかったのなら、今度は踊ったらどうだ。こう言って蟻たちはキリギリスに背を向けて仕事に戻って行った。人生には働く時と楽しむ時があるのだ。」 日本語版(ギリシャ語版の翻訳)も英語版も我々が読まされてきた話と若干違いますが、キリギリスが褒められてはいません。私の理解ではキリギリスが褒められたのではなく、イソップ物語の前編に流れるのは古代ギリシャの奴隷たち(我々の知っている近代の奴隷とはだいぶ異なりますが)の人生訓、処世術であり、当時の物語が現代の人間にそのまま教訓にならない場合もあるということです。しかし、世界にはキリギリスの生き方を善しとする民族もいるのでしょうね。 日本人が日本人向けに書き直した蟻とキリギリスは、蟻は働くこととの意義を説いた後にキリギリスに食べ物を分けてあげ、キリギリスは有難うとお礼を言って立ち去ることになっています。これは仏教の教えです。
ロシア人の人生観 1.蟻とキリギリスの寓話より 日本にいるとどうしても理解しにくいが、ロシア人と日本人の根本的な人生観の違いを示す、ひとつの好例がある。私が偶然読んでいた「美学」の本の中にあった非常に凡庸にも思える話に、そのヒントはあった。 世界中でも最もよく知られている童話作家イソップの話に「蟻とキリギリス」がある。ほとんどの方が、ご存知なのではないかと思う。この話など、今更ここに書くまでもないだろうが、一応手短に流しておく。 働き者の蟻と、怠け者のキリギリスがいた。暖かい季節の間、キリギリスはフラフラと遊びまくり、一方の蟻はせっせと働いていた。そのうちに厳しい冬がきて、蓄えのある蟻は助かったが、働かずに怠けていたキリギリスは冬の寒さの中、食べ物が見つからず、蟻に助けを求めるが、断られてしまう。 たしかこんな話であったが、結末には多少パターンもあるようなので、必ずしも、どの国でも同じようにイソップの寓話を解釈しているわけではないのであろう。しかし、日本とロシアでの解釈の違いを見れば、かなり驚かずにはいられないものがある。 たいていの場合、日本では「蟻のようにちゃんと将来のことを考えながら、地道に努力をしておけば、やがて来るべきときが来ても困らない」という教訓を編み出す話として、取り上げられることが通例に思われる。 しかし、ロシアではそれとは正反対というか、まったく異なる解釈を加えているのだ。ロシア人の感覚では、「困っているキリギリスを助けない蟻は悪人」であり、「遊ぶべきときを遊んで、人生を満喫したキリギリス」のどこが悪いのか?むしろ、楽しむべきときを楽しむのは、正しい!むしろ、それを助けないで自分たちだけで結束してしまう蟻の精神というのは、非常に利己主義で冷酷なものだと非難するのである。 これだけを見た人なら、そんなこととロシア人の人生観との繋がりが一体どこにあるのかと思われるであろう。しかし、私の場合、少なくともロシアという社会で何年間か、かなりロシア人側にどっぷり漬かって生活していたお陰で、この話こそ、現代ロシアの社会問題の側面を象徴しているようにも思えてくるのだ。 一般的に、ロシア人を知らない人から見ると、図体が大きくて、いかつい無表情な顔をして、あまり笑いもしない、どこに腹のあるか分からない人々と思っている可能性が強いが、実は彼らは恐ろしいほど感情的で、喜怒哀楽が激しく、議論に熱し、情に流されたりしやすく、おそらく、ヨーロッパ人には有り得ないほど迷信深い人々である。そして、このイソップの寓話のキリギリスの如く、「享楽的人生」を良しとする。 その一例に、離婚率の高さがある。まず、彼らの人生において重要なのは、自分にとってのその場、その場の好悪の感情なので、若いときに情熱的な恋愛に走ったら、そのまま結婚へとゴールインしていく。そして、数年で挫折。あっさり別れる。この場合、大半がそれまでに子供がいれば引き取るのは女性。 そして、懲りもせずに数年後には又、どこかで新しい人を見つけて、さっさと結婚。こういうことを、3回くらい繰り返すのは全然普通で、誰もそれを非難もしないし、むしろ、堂々としたものである。イリーナ・ハカマダという日系ロシア人国会議員だった人などは誇りのように「それぞれ違う夫から三人子供を産んだが、私は好きになった男の子供は産まないではいられない」とテレビで誇らしげに話していたくらいだ。(ちなみに、彼女は非常に知性的で性格も日本の血が混ざっているからか、冷静で客観的な人だ) もちろん、今の日本もだんだん離婚率は高くなっていると思うけれど、関心事の高さから行くと、おそらく「今日の恋愛」も大事とはいえ、年齢とともに「恋愛」よりも「年金」へと重大事が移る人がほとんどではなかろうか? でも、ロシア人はどちらかというと、いくつになっても、恋愛にたいして見境や分別はなく、情熱があれば、自分が何歳だろうが、相手が何歳だろうが結婚する。ある意味、正直な分、幸せな面もあるが、崩壊したときのこととか、その後の生活がどうなるとか、「将来的計画」を無視して、暴走してしまうところがあって、まさに「キリギリス的人生観」なのだ。 一方の日本人ならば、よっぽどの芸術家だとか、個性的な人は別として、そこまですべてを賭けて恋愛して、「将来的計画」だとか、「蓄え」なんてどうでもいいと言えるのは、何歳くらいまでだろう?(むしろ、日本の場合、打算的な面が働いて結婚へ結びついていくパターンも少なくない)純粋でないといえば、そうも言えるが、社会全体で見ると、皆が「キリギリス」になった社会は明らかに不安定になってしまうというのが、ロシアの例で、残念ながら、日本もそれに近付きつつあると思うときもある。それでも、ロシアほど深刻ではないと思う。 というのは、一時マスコミを騒がせた「マンホールの中に住む子供たち」のほとんどが、そういった若年結婚カップルの親から虐待されて、田舎の町から電車で都会へ逃げてきた子供だというし、全体的な母子家庭の比率の高さは、明らかに社会が安定しない要因のひとつに思われるのだ。 もちろん、蟻が一面で冷酷と言われれば、そうかもしれない。ロシアにいるとき、非常に感じたのが、共産主義的な弾圧政権のもとで、非常に市民の団結意識が高く、顔も知らない人でも、困っている人同士は当然のように「助け合う社会」という面があることだった。 たとえば、女性が重い荷物を持っているとする。すると、全然知らない大きな体格の男性が近付いてきて、何も言わずに、その荷物を階段の下まで降ろしてくれる。あるいは、老女が重い荷物で困っているとき、迷わずに知らない若者に頼んで、途中まで運んでもらう。また、ときには雪道で転んでいる人がいれば、通りかかった人が、無言で腕を引っ張って、助け上げて去っていく。 こういうことが、私の滞在していた頃のモスクワでは当たり前のことだった。また、同じ共産圏の東欧の国々などは、今も市民は貧しいが似たような空気を残していて、なんとなく人々がお互いに困っていれば、助け合い、見返りを求めないところがある。これに関しては、たしかに「蟻社会」だとか、「蟻精神」というのは、非常に狭苦しくて、心も体も窮屈になるような生き方かもしれない。 だから、どっちが素晴らしいということはできないけれど、色んなものの見方があるんだという、反面教師的な感覚を磨く点では、「キリギリス感覚」も我々日本人の中にあってもいいと思うし、おそらく、これから冬の時代が来たときに、「蟻精神」と共に絶対に必要になってくるという気がするのだ。 PR |
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