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2012 05,03 10:00 |
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『賀茂御祖神社(下鴨神社)流鏑馬神事(やぶさめしんじ)』(京都の休日226)
京都市の下鴨神社では5月3日、賀茂祭(葵祭り)の前儀として 公家の装束(束帯)を着用しての流鏑馬で、他には見られない流鏑馬です。
下鴨神社では、境内の糺の森から古墳時代の馬具が出土し、
明治2年の(1869年)東京遷都祈願行幸以降中断していましたが、 下鴨神社 流鏑馬神事 興味のある方は、"つづきはこちらです"をクリック!
流鏑馬は「やぶさめ」、あるいは「やぼさめ」と読みます。
『貞丈雅記』に「やぶせむまの略語なり」とあるように、
下鴨神社では、流鏑馬とは云わずに「騎射」(きしゃ)と明治初年まで
その騎射の歴史は『日本書紀』、雄略天皇即位の年(457)に
当神社では、境内の糺(ただす)の森から古墳時代の馬具が出土しました。
文亀2年(1502)、葵祭の路頭の儀が中絶したことによって
元禄7年(1694)、葵祭が再興された時、騎射も伝統の作法により ◆作法◆
各役所が所定の位置に着くと、馬場元役は軍扇を揚げる。
一の射手は、馬場元の扇型に馬を進め、「揚扇」を行い、
二の射手は、先と同じように馬場元、末役の合図扇がすむと、 三の射手は、合図扇の後、「揚鞭」を行い的を射る。
騎射が終わると、一、二、三の射手は馬場殿の前で騎乗のまま
賀茂騎射の神禄は、桂に帛(はく)がかけてあり、 ◆日本の騎射◆ わが国における騎射の文献上の初見は、「日本書紀」十四・雄略天皇(456年)の条【大泊瀬天皇弓を彎き馬を驟せて賜り呼んで猪有りと曰ひ、即ち市辺押磐皇子を射殺したまひつ】の記事とされており、さらに天武天皇の時代(682年)には「長柄杜で馬的射」を行なったことが記されていることから、騎射が狩猟や武技だけでなく、儀礼としても行なわれていたことが伺われます。 奈良時代には、唐の統治制度を手本とした「律令制」による弓騎兵の伝統に従い、兵士の採用条件として第一に騎射に秀でていることが求められていました。そして弓箭は武官を象徴する表識ともなりました。 平安時代以降、武士の台頭と共に騎射の技術は武士の必須として重視されるようになり、やがて戦術の変化や重火器の導入により、騎射がその実用を失っても尚、弓馬は武門の精神的象徴として長く重んじられてきたのです。 そうした日本の騎射には、流鏑馬(やぶさめ)・笠懸(かさがけ)・牛追物(うしおうもの)・犬追物(いぬおうもの)、また作物(つくりもの)といわれる、三三九(さんざんく)・八的(やつまと)・手挟(たばさみ)・乞垂(こいたれ)・引不引(ひくひかぬ)・脇細(わきぼそ)・四六三(しろくそう)、など数多くの様式があったとされています。 しかし現在では、代表的な騎射の三つ物以外、その詳細は不明です。騎射の三つ物とは、流鏑馬、笠懸、犬追物を総称する名称ですが、それぞれの目的を区別すれば、流鏑馬は神事として、笠懸・犬追物は実戦の訓練や競技として行なわれてきたため、その様式や作法も異なります。 PR |
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