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2009 12,27 17:00 |
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マニュアルがないと何もできない――「自分で考える」力のない人々 ――言われたことはやれても、応用がまったくできない部下がいて困る。 ――1年前のデータをもとにした入力作業で、人がそれから1歳年をとっていることを、わざわざ言ってやらなければ気がつかない職員がいる。 ――昇進試験の勉強は完璧なのに、実務が全然できない人がいる。 ――マニュアルはパーフェクトに覚えられるのに、マニュアルのないことはお手上げという人が多い。 いろいろな組織の中で、このように「自分で考える」力のない人が増加していることが問題になっているようです。 記憶やパターン思考などのコンピュータ的な情報処理ばかりに「頭」を使うことは、人間にとってはかなり不自然なことであり、次第に「自分で考える」ことができない状態に自分を追い込んでいってしまうものです。そしてそれが、のちのち「心」(=「身体」)側からの大きな反発を招く原因にもなってしまうのです。 現代の「うつ」の中には、このように偏った「頭」の使い方ばかりしているうちに、「自分がわからない」といった行き詰まりに陥ってしまったケースが少なからず存在します。 そこで今回は、「人間らしい思考力とはどういうものか?」というテーマについて考えてみたいと思います。 興味のある方は、"つづきはこちらです"をクリック!
人間の「頭」は、「心」(=「身体」)と密接に連携した状態で働くことによって、「自分で考える」ことができる仕組みになっています。この、人間ならではの理性の働き方は、物事を鵜呑みにしない懐疑的精神を備えており、オリジナルな発想ができる創造性と臨機応変に考えられる柔軟性があるものです。 しかし現代の社会では、どうも「自分で考える」ことよりも、与えられた情報を無批判に受け入れて記憶し、それを器用に処理する能力のほうばかりが評価される傾向が強いようです。 記憶力やパターン思考に長けた者が高得点を得るような試験制度の存在が、私たちの思考力を偏った方向に歪めている大きな要因の1つであることは間違いありません。そんな中で、いつしか「頭が良い」ということが、「記憶力が良いこと」「従順にパターン化された思考ができること」だとすり込まれてきてしまいます。 しかしそのような能力は、人間の知的能力の中では、実のところあまり高次元のものとは言えないのです。
脳の海馬や扁桃体の研究者で近年意欲的に著作を発表されている池谷裕二氏は、動物の記憶力というものは、進化して高等動物になるに従って、写真のごとき精密な記憶力から、むしろ曖昧で抽象的なものになっていくものだと述べています。 たとえば鳥類のモズは、「モズのはやにえ」として知られているように捕獲した昆虫やカエルなどの餌を木の枝に刺してストックしておくのですが、その記憶力があまりに精密で写真的であるために、葉っぱが1枚落ちただけで同じ木であることが認識されず、結局取りに戻ることができずに刺しっ放しのままになってしまうことが多い。これが、人間のように曖昧で抽象化された記憶力であれば、葉っぱ1枚違っていても、それに惑わされたりせずに同じ木であると認識できる。このように、精密で正確な記憶力というものが、むしろ人間ならではの高度な知性に反するものであることを、池谷氏は指摘しているのです。 確かに、鉄道路線の駅名を丸暗記できたり円周率を随分な桁数まで覚えることができたりするのも、子供の頃には案外珍しくない特技ですが、大人になるとそんな丸暗記はすっかり苦手なことになってしまうものです。しかし、それこそが知性の成熟の証しでもあるわけです。
人間の自我というものは、その基本的な性質として、外部から何かを強いられることに反発します。 幼少時の「自我の目覚め」が「イヤイヤ期」となり、思春期の「自我の発達」が「反抗期」を生むように、自我というものはそもそも従順さとは相容れないものです。 反骨の詩人・金子光晴氏が22歳頃に書いた『反対』という面白い詩があります。この詩には、人間の自我の性質が痛快かつ滑稽に示されているので、ここでその一部を紹介しておきたいと思います。 僕は少年の頃 学校に反対だった。 僕は、いままた 働くことに反対だ。 僕は第一、健康とか 正義とかが大きらひなのだ。 健康で正しいほど 人間を無情にするものはない。 (~中略~) きものは左前、靴は右左、 袴はうしろ前、馬には尻をむいて乗る。 人のいやがるものこそ、僕の好物。 とりわけ嫌ひは、気の揃ふということだ。 僕は信じる。反対こそ、人生で 唯一つ立派なことだと。 反対こそ、生きてることだ。 反対こそ、じぶんをつかむことだ。 (清岡卓行編『金子光晴詩集』岩波文庫より)
このように、従順ではない自我の特質とは、人間の「心」(=「身体」)の特質に由来するものだと考えられます。 「心」は何ものにもとらわれずに、対象に興味や関心を向けたり向けなかったりする自由な働きをします。ですから、外部から何かを強いられることは、「心」(=「身体」)にとっては苦痛なことなのです。 一方の「頭」はコンピュータ的な情報処理をおこなう場所で、「心」との間の蓋が閉まった状態では「心」の関与がなくなってしまい、かの従順なモズ的記憶力やパターン思考などの低次元の知性が前面に出てくることになります。 逆に言えば、従順にモズ的記憶力やマニュアル思考だけが働いているような状態は、「頭」と「心」(=「身体」)の間の蓋が閉まっているということなのです。これは、前連載でも幾度となく取り上げてきたように不自然な状態であり、「うつ」の予備軍的状態でもあるわけです。
「自分で考える」とは、「頭」と「心」(=「身体」)の間の蓋が開き、「心」が自発的に示す知的好奇心や関心にもとづいて、「頭」が活動することです。 その際、「心」は、既存のマニュアルに従ったり仕入れた知識や情報を鵜呑みにしたりすることを好みません。必ず一度吟味を加えて、自分自身で本当に納得した場合にだけ情報を取り入れ、しかもそこに何らか独自のアレンジを加えたがります。 そのため「自分で考える」人は、マニュアルに従わされることには多大な苦痛を感じるものですが、むしろ、マニュアルを作ることは自在にできるものです。さらに、オリジナルな発想をしたり、マニュアルでは対処不能なことを解決したりできる高いポテンシャルを持っています。 今日では、教育現場、医療現場、商業店舗、会社、行政組織などの様々な場所で、マニュアルを用いたサービスの均質化や効率化が図られています。これによって質の悪いサービスが減り、サービスの質が底上げされるという効用があることは認めざるを得ません。 しかし、マニュアルにただ従うような人間が増えることは、管理者側にとっては都合の良いことかも知れませんが、人間の在り方としてはとてもいびつなものでもあると言えるでしょう。 「自分で考える」ことのできるような自然な在り方の人間が、現代の社会において不当に低く評価されてしまったり、従順でないために厄介な人間と見なされて排除されてしまったりする風潮があることは、私たちの社会の大きな問題です。オリジナリティの点でどうしても日本が精彩を欠いてしまうのも、このような風潮によるところが大きいのではないかと思われてならないのです。 次回は、短期的成果主義によって踏みにじられるものについて考えてみたいと思います。 (株式日記と経済展望さんのコメント) 私自身にとっても学校や会社は非常に窮屈な世界であり、規則規則で非常に退屈な世界だった。学校で教えられる事や会社で行なっている仕事は定型的なものばかりで創造力を要求されることがほとんど無くて、創造力を評価するシステムが組み込まれてはいないことが多い。 もちろん学校などでは創造力を養うというスローガンが蔓延っていますが、実際にやっている事は創造力を持たない記憶力重視の教育だ。その為に創造力豊かな子供が潰されてしまって記憶力だけの子供が優等生として東大などに進学する。なぜペーパーテストだけで入学試験が行なわれるのか? その結果テストでは非常に優秀なのに実務では全く使いものにならない指示待ち族が量産される事になる。 泉谷氏が言うように「記憶力が良い」と「頭が良い」とは別の能力であり、○○オタクと呼ばれるような人は特定分野の事を非常によく記憶しているが、それで頭がいいとは言わないだろう。東大を出たキャリア官僚でも正解のない未知の問題に出くわすと能力の限界を出してしまう。しかし天下りや利権などの拡大には優秀な能力を発揮しているのは能力の使い方を間違えている。 最初に言ったように、学校や会社などの閉鎖された社会で自分の意見をいうと言う事は反抗していると見られやすい。ネット上でも「空気が読めない」事が非難の対象になる。自分の意見を言うには、周囲の視線を気にしながら言わなければならないような雰囲気が出来るのは日本が閉鎖された社会だからだろう。 ブログなどを見回しても自分の意見を言う人が非常に少ないのですが、普段から自分で物事を考える事が少ないからだろう。書いてあることもメモ書き程度の数行しかないブログがほとんどだ。ある問題についてまとまった意見を文章にして書くことが出来ない。「株式日記」も最初の頃は数行の文章しか書けず、30分経っても考えが浮かんでこない状態が続いた。 文章を書くことに慣れていなかったからかもしれない。しかし書き続けているうちに意識しなくとも文章が浮かんでくるようになり、考えを文章にできるようになった。本来ならば学校などでレポート提出などで文章作成力は付くはずですが、最近の日本の学校では宿題も出ないしレポートを書かせることもあまり無い。国語の授業でも作文よりも漢字の書き取りばかりやらせている。 漢字の書き取りなら点数もつけやすいし検定試験もあるくらいですが、作文となると評価が難しい。しかし作文を書くためには自分の考えがしっかりと作れなれば書くことが出来ない。そのためには考える事が欠かせない。だから学校教育では作文やレポートなどジャンジャン書かせるべきなのですが、国語の先生が読むのが大変だから書かせないのだろう。 アメリカの学校などではスピーチなどが課題になって意見発表など積極的にやらせている。しかし日本の学校などでは自分の意見を教壇に立たせて発表させることは記憶が無い。自己主張をさせないと言うのが日本の学校教育であり、規則やマニュアルに従う事が絶対と教えられる。 学校などではあれも禁止これも禁止ばかりで生徒の自発性を高めるという一番大切な教育を殺してしまっている。いくら音楽的才能があっても絵画的才能があっても進学テストには反映されないから評価されない。ひたすら記憶力重視の丸暗記教育だ。 最近においてはパソコンなどの情報機器の発達で、情報などのデーターはこれらの機器に任せておけば良くなった。漢字の書き取りなどもパソコンが自動的にやってくれるから漢字が書けなければ文章が書けないと言うことは無くなった。しかし学校では漢字の書き取りばかりやっていて文章を書かせることはやっていないようだ。 ブログや2ちゃんねるなどを見ても自分の考えを分かりやすく文章に書ける能力が欠けている人が多いようだ。「株式日記」も自己流の文章を書いているのですが、学校教育などで文章の徹底的な添削ができる先生があまりいないのだろう。大学などでも論文を書かせる事はほとんど無く遊んでいても卒業ができる。 これでは一般常識が身に付かないのであり、記憶力でマニュアルばかり暗記して、それに疑いを持たない若者が出来上がる。思考力があると思っている人でもパターン化した思考に慣れてしまって基本原則などを考える能力が全く無い。このような若者が会社に入れば言われた事はやるが、後はぼーっとして何もやらない。これでは使いものにならない。 例えば、今年は新卒の高校生や大学生の就職状況が悪いようですが、何故なのか、どうしたらいいのかを考える能力が無い。就職できなかった若者はそのままフリーターか派遣になっていくしかないのだろうか? マニュアル化したことしか出来ないから使い道がなく就職も出来ないのであり、優秀な人材なら企業から引っ張りだこになるはずだ。私自身も30代で銀行に見切りをつけて不動産業で独立しましたが、不景気で就職できないと言う前に有能ならば独立して起業できるはずだ。 確かに起業するにも楽ではなく、仕事もうまくいくとは限りません。私などもバブル崩壊の波をもろに食らって開店休業状態なのですが、フリーターや派遣にならずにすんだ。最近捕まった千葉の市橋容疑者は大阪で建設労働者をして100万円貯めたそうですが、やる気があれば正社員に就職できなくても金は貯められる。 大学を卒業したら会社に就職をするというマニュアルを作ってしまったからそうなるのですが、優秀な学生なら起業して稼ぐべきなのだ。ところが日本の学生は優秀な学生ほど大企業に就職してサラリーマンになってしまう。マイクロソフトのビル・ゲーツは大学を中退して会社を興した。パーソナルコンピューターという創造力を生かせる仕事を見つけたからですが、現在の日本の停滞は創造力や自発性に欠けたマニュアル人間ばかり作ってきたからだろう。 ■□━━━━・・・・・‥‥‥……………………………… ・・・で、ワタシの意見なのですが、 まず、泉谷閑示(精神科医)先生の ・・・これって別に今始まった事ではなく、昔々からあったワケで、 昔々から累々と受け継がれてきた農作業についても、 基本的に昔々から 現在に限ってではない時点でその他の理由が陳腐なモノにしか ましてや、株式日記と経済展望さんの学校批判や社会批判に繋げるレベルは 根本にあるのは、人間に上下が出来た時点で・・・ ワタシの職業の基本は起業&企業支援なので、 根本を理解した上で、親が多方面で知識や「智慧」を習得して 学校や社会などは元々虚ろぎやすいもので、それに頼(たよ)ろうとする PR |
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